The Damned Duty

'If you speak about demoracy at a public meeting there is no need to make a secret of your personal point of view. On the contrary, you have to take one side or the other explicitly; that is your damned duty.'


「空気を読め」は一番嫌いな日本語だ。これを発語すると自分の意図を説明する努力、リスクを全て放り出して(偉そうに、もったいぶって)相手を責めることができるからだ。
心理的キューを読め」に近い意味で使われることもあるが、それより遥かに威圧的で悪意を含む言葉だと思う。従姉妹の言い回しを借りれば「口はなんのためについてるの」だ。食べるかキスするか酔ってゲロ吐くためだけじゃないだろう。

相手の意向に反するであろうことを言うのは確かに怖い。後に何か不都合があるかもしれないと思うと余計に勇気が要る。単に面倒くさい時もある。私も親しい人でない限り大抵は逃げる。でも、自分がこの先成長できるとしたら、自分が言わなければならないと思った時にリスクを負ってでも自分の意図を表明したい。

Deliberative democracy(公共の場での市民同士の対話によって促される熟考に基づくボトムアップ型の民主主義?)という概念に関心があって、「空気を読め」というのはこの概念と体現する価値観が真逆の言葉なので、余計気に入らないんだと思う。

一般に政治的とされる活動(投票やデモや政治家になること等)ではない普段の生活の所作のほとんどが、何か「全ての行為に政治的意味がある」という以上の、いわゆる「政治活動」と同じまたはより政治的な行為のような気がここ数年ずっとしている。例えば何を言うかとか何について質問するかあるいはしないでおくか、誰と友達になるかとか。なぜかはまだうまく説明できないが。